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ありさ、へ


 愛してるって言ったら本当になるのよ。本当なの。
 ありさは言った。血まみれの腕を差し出しながら、虚空をさまよう魚のように瞳をギョロギョロと泳がせて。
 愛してるって言ってよ。
 愛して無くても、愛してるって言って。
 かみそりの刃が、傷だらけの腕にやんわりと押し付けられる。皮膚がたわみ、しばらくするとはじけたように血が盛り上がってくる。オレはやめろと言うべきだった。そう、言うべきだった。
 愛してるって言って、愛してるって言って。
 一筋の光すらない、ありさの瞳は泥の闇に飲み込まれてしまっている。ぼろぼろの白いワンピースが、赤黒い血にまみれ、すすけたまだら模様になってゆく。びちゃびちゃと無遠慮な音を立てて、ありさの素足が自らの血溜まりを踏みつける。
 愛してるって言って。
 愛してるって言ってよ。
 オレは右手を上げた。そして振り下ろした。それはありさのちょうど首辺りに命中した。
 ありさの首が、玩具のようにひしゃげる。がぼ、と骨の突き刺さった喉元が奇妙な音を立てた。ごとり、ありさの首から上が、床に落ちた。きれいだった黒髪が辺りに散らされた血溜りに沈んだ。ビクビクと、俺の目の前にのこるありさの胴体が痙攣する。そして……ゆっくりと、主を失った吊人形のように、倒れてゆく。
 オレは目を覆うゴーグルの向こうで、溢れた涙をぬぐうことも出来なかった。高性能の酸素マスクの下で、流れる鼻水をふき取ることも出来なかった。床に転がり、双眸を見開いたまま、かすかに動くありさの首を、抱きしめてやることも、出来なかった。
『終わったか』
 耳元で声がした。先輩の声だ。オレは、『終わりました』と簡潔に答えた。
『血液を採取しろ』
『了解しました』
 オレは胸元からカプセルを取り出すと、まだぬくもりの残るありさの血液に浸した。ほんの少し掬い取り、カプセル設置装置にひねり付ける。下部の赤いランプが点った。
『赤です……先輩』
『やはりな』
 先輩の声はしかし、落胆していた。何かを期待していたのかもしれない。まだ、どこかに希望があると、信じていたのかもしれない。
『……よくやった、健一』先輩の声色は優しかった。『十分以内に集合地点に戻れ。対策会議を開く』
『了解』
 ぷつり、と回線の切れる音がした。
 オレは部屋を振り返る。夜が迫っている。窓から差し込む夕焼けが、人形のように横たわるありさの身体を照らしている。
 愛してるって言って。愛してるって言って。
 鮮血のように強烈な色味で、耳元に残る声がある。大きな鉄で出来たマスクのせいで、オレの鼓膜はありさの声を聞き取ることなど出来ないはずだった。
 愛してるって言って。愛してるって言って。
 その唇は、喉は、声は、瞳は、身体は、すべてで現していた。ありさが現したかった感情を、そのままに。
 記憶から引き出したありさの顔は笑っていた。無垢で幼い少女のように、純真な美しさで、夕日に照らされていた。
「さようなら、ありさ」
 オレは、マスク越しにそう言った。決して届かない言葉だった。そうしてゆっくりと、部屋を後にした。


 二XX二年、人類は未曾有の伝染病に冒された。アメリカ、ロサンゼルスを発祥の地とし、二XX三年四月には日本にも上陸した。その伝染病は、人の脳を破壊してゆく恐ろしいものだった。人間は感情的になり、理性で抑えていた感情や欲望を放出させる。第一に、世界は犯罪であふれ、統治も不可能な情勢になっていった。第二に、脳の萎縮が高速で進行し狂いながら死んでゆく人々が増えた。そして第三に、ネオ・ヴィクテムと呼ばれる症状が出始めた。伝染病のウィルスがよりどころとなる人間を生かすべく、脳を狂わせながらもゾンビのように生き続ける人間が出没し始めたのだ。伝染病をかろうじて免れた人々はネオ・ヴィクテムを消滅させるプロジェクトを立ち上げた。ネオ・ヴィクテムはウィルスの温床であり、危険であると判断されたのだ。そして、運よくウィルスにかからなかったオレはその一員に選ばれた。

 抗菌室に入り、徹底的に消毒されから、部屋に入る。すでに何百回と繰り返されている習慣だった。扉を開けると、先輩が椅子に座り待ち構えていた。プロジェクトに抜擢された日本チームの全員がその場にそろっている。
「健一、早速だが、報告をしてくれないか」
 先輩が言った。日本プロジェクトチームの司令官だ。華奢な身体のまだ若い女性であることに、世界中が驚いていたが、今では誰もがその実力を認める立派な指導者である。
「はい。本日午後五時三十五分二十二秒、東京都千代田区高島平、平塚氏宅で、ネオ・ヴィクテム、平塚ありさと接触をいたしました。研究どおり、生前強烈に前頭葉に残った言葉のみを繰り返し、自傷行為を継続的に行っているようすでした。右手装備の新型破裂式刀で首を落とし、血液を採取いたしました。結果は陽性です」
「つまり、とうとう千代田区にもネオ・ヴィクテムが確認されたのですね」誰かが言った。
「うむ」先輩がうなづいた。「平塚健一は身を挺して、自身の生家にネオ・ヴィクテムがいるという可能性を確認しに行ったのだ。このたび殺傷したのは、当人の妹にあたる。この勇気、みなも見習うがよい」
 先輩が腕を組み、厳しい顔をつくる。
 オレは、顔を上げ、天井を見た。
 もう、涙は流れなかった。



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